天色日和 -amairo biyori-

ふと思う、あんなこと や こんなこと。

あると思った瞬間に“ある”! と 空想ファンタジー

自分自身の創作や空想、アイディアの原点はどこかっていうと間違いなく小さい頃から慣れ親しんでいるファンタジーや漫画ゲームの世界で、今でも暇さえあれば二次元の世界に出掛けていっています(*´ω`*)♡

 

昔から「そこに、“ある”!」と思った瞬間から、実際にそこに「ある!」というのを何となく体感として実感していて、たぶんその感覚が、いわゆる直感とか、目に見えないエネルギーを感じ取るセンサーになっているのだと思うのだけれども、

 

今までその「あると思った瞬間に“ある”」という感覚をいまいち言語化出来ていなかったのが、気晴らしに見たディズニーアニメーション映画『アラジン』を見てみたら、これまでの関連知識がカチカチカチッと繋がっていって、腑に落とすことに成功☆

いぇーい!やった〜(*^^)v

 

昔のディズニー作品って「願えば叶う」というテーマが多かったように思うのだけど、特にアラジンでは魔法のランプを使って『具体的に願わないと叶わない』という世界観を持っている。

 

『願えば、叶う』。

 

逆に言えば、『願いをハッキリさせないと叶わない』ということ。

 

という事は、私がこれまで体感していたその感覚というのは「“ある”という願いがハッキリしているから、そう思った瞬間に“ある”」という事になるんだよね。空間の関係もあると思うから物理的に叶うには時差があるとは思うけど、エネルギー的にはたぶんjust timeでタイムラインは動いている気がする。( ・∀・)

 

アシュタールAミナミさんの本の中に確かこんなのがあったはず。

「夢を叶えたいならば名前をつければいい」という言葉で、これっていうのは本の中の例えで言うと、カーナビで目的地にたどり着くには到着地(名称とか住所)を入力すれば、カーナビが目的地まで自動で連れてってくれる…という事でした。

 

つまり、自分で目的地を入れて運転していかない限りは目的地に辿り着けないという事なんだけれども、またまたこれに似ているのが、

ひすいこたろうさんの提唱する予祝という考え方。

 

予祝は実際に叶ったら鼻血を出すレベルでイメージして先にお祝いすることで願いを叶えてしまおう!というもの。

 

空想…いや妄想?が好きな私にとって予祝はほとんどファンタジーの世界観で、とにかくやってると楽しいから、予祝手帳を使ってウキウキしながら書いてる…という感じ♪(^^)

 

魔法のランプ、アシュタールの目的地、ひすいさんの予祝。

 

そっかぁ〜全部やってることは同じだったんだね♪“ある!”の体感が共通してるって事で良かったんだな?なるほどナルホド(*´∀`)

 

これらを全部繋ぎ合わせられたという事は、もっともっと!自由に願ったり叶えたりという事が今後出来ていきそうな予感〜(*˘︶˘*).。.:*♡

 

ところで私、小学生の頃かな?ゲームでPRGやってる時に「人間ほんとに頑張ったら手からファイヤーとか、回復ヒーリングとか出来るんじゃないかなぁ?(・・??」なんて本気で信じていた訳だけれども、

 

まさかあれから二十数年後には本当にレイキを使ってヒーリングしてるとは…って感じなんだよね(笑)

 

まだ手からファイヤーは出せないし瞬間移動も出来ないけれども、自然界に存在しない成分で出来ている人間って本っ当に不思議で、まさに奇跡の塊のようなモノだと私は思っているので、だからファンタジーの世界ってあながち嘘って訳ではないと思うんだ。

 

製作者のインスピレーションは、たぶんこれまでの経験則からではないはずなんだよね。だってこの地球には手からファイヤー出せる人なんていなかったはずだもの。(まぁ、もしかしたら居たかもしれないけど常識的には居ないというか…)そう考えると一体どうしたら手からファイヤー、いやそもそも魔法なんて概念が生まれようか?って感じな訳で…(゜o゜;

 

手からファイヤーや魔法なんて普通に考えれば不可能と思われていそうな、そういうインスピレーションがどこから来てるのかってことを考えると、案外、宇宙のどこかでの実在(ノンフィクション)を、ファンタジー(フィクション)として地球に卸して来ているような気がする☆彡

 

“地球規模”ではなくて、“宇宙の中の星の1つである地球”という規模で考えてみると、この地球世界で、人間という不思議な存在がね、

 

Kan.さん風に言うならば、

メイドイン地球の枠をどこまで外していけるか?

どこまで“人間”という存在の常識を覆せるのか?

…こういうのを考えるのが私はめっっちゃ楽しいんだよね♪

空想の醍醐味ってやつだわ!(๑•̀ㅂ•́)و✧

 

う〜んそれにしても!やっぱりぜひ一度、長崎のあんでるせんには行ってみたいものだなー♡楽しそう(*˘︶˘*).。.:*♡

 

 

pisca

同じ周波数同士は、惹かれあうことを実感!

人生でたまに起きる、不思議な出会い。
宇宙の采配とはこのことかと感じる程のご縁。

 

これまでのコミュニティでは無く、まったく何もないところから、まるで「ぽん!」と急に現れたかのような、新しいお友達。

 

フィーリングで惹かれあったから会ってみたら、共通点がやまほど!
すぐに意気投合☆
シンクロニシティも、これでもかってくらい沢山!!

 

「類は友を呼ぶ」とか「周波数が同じ」とか「棲み分け」とか、本当にそうなんだなぁ~~と実感しました(^^;

 

そういえば、今まで考えたこと無かったけれど。


『フィーリングで惹かれあう』って言うのは、一体、お互いに相手のどの部分を見て感じているのだろう?なんて考えてしまったけれど、

うーん、きっと見えない所の領域を敏感に感じ取ってのことなんだろうなぁと実感しました♪

 

きっと、自分と似た周波数同士は本当にごく自然に惹かれあっていて、
たとえば電車やバスで隣り合う人や、
スーパーでどのレジに行くかとか、
そんな風に皆、自然に惹かれあって近づいては離れてゆく・・
なんて事を日常的に繰り返しやってるんだろうな^^

 

もしかしたら、学生時代の席替えのくじ引きなんかも、そんな不思議な何かが働いて決まっていたりして☆

 

私には見えないけれど、ガイドさん?とかハイヤーセルフさん?なる存在達は、お互いに「よっ!じゃまた近いうちに(^0^)/」「お~そんときゃヨロシク(^v^)/」
なんてコンタクト取ってたりして・・(笑)

想像で思い描いてみたらなんだか可愛らしくて「ふっ・・♪」なんて笑ってしまう。

 

でも、考えてみたら、

 

『私は素敵な人にばかり出会う』
とか
『私ほんっといつもラッキーばかりなんだよね』
とか、
『お金に困ったことないんだよね』
なんて、

そんな風に思って過ごしている方がそういう出来事と出会っていくんだよ・・

 

・・なんてことを今まで知識としては知っていたけれど、
なんとなく「??」状態だったのが、

今日は腑に落ちるところまでいけた感じ☆

 

もう本当にあれやね、楽しく生きるのが一番!

 

うむ!
順調、順調!

 

前途洋洋~(^▽^)♪

 

 

pisca

映画「シンデレラ」が教えてくれる 愛と許し とマザーテレサの言葉

おとといのマザーテレサの日めくりカレンダーの言葉。

 

『愛される為には、心を開くだけでいいのです』。

 

「愛される」とは、
愛される為に一生懸命頑張ることではなく。

「愛される」とは、
愛されることを心を開いて受け容れること。

 

ちょっとうろ覚えだけど、そんな事が書いてありました^^

 

そして今日、たまたま録画してあった映画「シンデレラ」を鑑賞していたら、シンデレラがガラスの靴を履いて王子と結ばれるラストシーンで同じような事を台詞の中で言っていてシンクロでした♪

 

シンデレラ:
国王陛下(王子)、私はプリンセスではありません。
馬車もないし、親もいない。持参金もありません。
その美しい靴が足に合うのかも分かりません。
もし合えば、ありのままの私を受け容れてくださいますか?
あなたを愛する村娘を。

 

王子:
もちろん受け容れる。
ありのままの僕を受け容れてくれるなら。

 


う~んシンクロ!
そうなんだよなぁ、完璧ではない自分をウケイレて心を開くことで、愛されることをも受け容れる、そういうことなんだなぁと^^

 


ありのままの相手を受け容れるって時に難しいこともあるし、
ありのままの自分を受け容れて貰うのも勇気が必要な時もある。


可愛さあまって憎さ百倍
とか、
愛は・・何だろ憎悪?の裏返し
みたいな言葉があるけれど、

 

自分にとってどうでも良い相手は受け容れようが受け容れられまいが、やっぱりどうでも良かったりするけれども、

自分にとって大切な存在であればあるほど、
愛も憎しみも、とても振れ幅が大きい。
愛ならいいけど、憎しみになってしまった場合は何より一番自分が苦しくなるから(^^;

 

そうなってくると、必要になってくるのが
『許し』。

 

相手を許すこと。
そして、誰かに憎しみを抱いてしまった自分すらも許すこと。

 

許しは、相手を愛することにも、自分を愛する事にも繋がるんだね(*^^)v

 

で、そう思ったのは何故かというと、初めの方のシーンでエラ(シンデレラ)の最愛のお母さんがエラに遺した言葉があったから。

 

エラの母:
勇気と優しさを忘れないこと。
優しさには力があるの。驚くほどの力が。魔法の力よ。
どんな時も勇気と優しさを持ち続けてね。
ママはもうお空に行かないといけないの。
ママのこと、許してね


エラ:
ママ、もちろんよ。

 

エラはずっと母の言葉を胸に、母のような女性を目指して頑張ってきた訳です。

そして最後に散々ひどいことをしてきた継母に別れを告げるシーンで、エラは継母を少しだけ哀れむようにじっと見つめてこう言ったんです。

 

エラ:
あなたの事を許します。

 

あぁ、本当にエラの中でお母さんの存在は大きくて、お母さんに支えられ、そして本当に大好きなお母さんのような素敵な女性になったんだなぁ・・

 

と思うと同時に、

 

最後まで優しさを持ち続けて、相手を許すし憎しみを愛に変える勇気。

相手を許すことが、結果として自分自身への優しさにもなるという事か・・なるほど。


と、そんな風に思い感動しました。

 

最後、結婚式の衣装で王子と幸せそうに微笑みあい、観衆の祝福を受けている姿を見て、

 

「よかったねぇ~~~っ!!涙
これまでよく頑張ってきたねぇ・・
私はちゃんと一生懸命やってきたのを見守っていたからね~~!
偉かったねぇ・・末永く幸せである事を祈ってるからね~!><(感涙)」

 

と、またまた大・号・泣☆

(笑)

 

 

なんだか最近、涙もろくなってきてる(^^;

感受性のリミッターが外れてる感じがしていて、
エネルギー的にも何かが変わろうとしているかのような、そんな気配。

ここのところ頻繁に起きるシンクロニシティが、
「心配しなくても大丈夫だよ~順調順調♪ 焦っちゃダメだよ☆」
と言ってくれているみたいで、なんだか幸せ感もある^^


私も楽しく新しいステージに行けるよう、
自身の心と丁寧に付き合っていこうと思ふ今日このごろ。

 

 

pisca

 

依存も特別意識も大切なもの

あくまで私の経験上ではだけれども(^^) 

スピリチュアルにしろノンデュアリティ(非二元論)にしろ・・

 

どっぷりハマって依存してしまうのは何故だろうか?


ってことを振り返って考えてみると、そういった教えというものは、あなたは選ばれし者だという『選民意識』を与えられ、あなたこそが必要とされている存在なのだという『承認欲求』を満たしてくれるからだと思う。

 

他の言い方としては、
あなたは唯一無二の特別な存在であるという『特別意識』というものもあるかな?

 

決して悪い訳では無いし、もともと自尊心が低くて自分に自信が無かった私にとっては必要不可欠な経験だったと思う。
この経験があってよかった!と心から思う😃

 

なぜなら、これらの要素は「自分という存在を肯定する事」においてはとても大切な要素であると思うから。

 

でも、これらの『選民意識』、『承認欲求』、『特別意識』というのは十分に満たされた、学んだと思ったら手放すことが大切だなぁとしみじみ思う。

これが行きすぎてしまうと、私が体験した通り“依存”となってしまうから。

 

これらをうまく使ってるのが宗教で、たとえ教えそのものがその宗教のトップ(先生)による “一人ひとりの自立を促す教え” だったとしても…

 

それを学ぶ人の認識が「この先生にさえついていけば」とか「いざとなったら先生が救ってくれる」みたいになってくると、自分と同じ人間であるにも関わらず神格化されてしまい、それはもうただの依存になっちゃうんだよね。

 

そしてそういう人には何を言っても響かなかったんだよなぁ~(;´∀`)

 

判断基準は自分がどう思うかじゃなくて先生だったし、ほんと、先生以外の意見には聞く耳持たない方々だった(苦笑)


尊敬する気持ちは分かるんだけど、それがこう・・行きすぎた熱気になってしまっているというか、狂気じみた印象を受けたことで私は離れたんだよねぇ(^^;

 

私もライフワークで師事している先生はいるけれど、ある時「先生いなくなったらめっちゃ困るな私・・」と思った自分に気がついて、非っ常~~に危機感を感じた。汗


このままではイカンな自分、と…(汗)


先生から学べるものうちに学んで、最終的に自分でどんな事例にも対処できるよう本当の意味での独り立ちを目指してる^^

 

ところで、宗教だけじゃなくて、高次元存在によるチャネリング情報でも同じようなことが言えるんじゃないかなと思っている。

 

チャネリング元である存在の意向にもよると思うけど、信じる信じないは別にしても「あ、スッと入ってくるな」というものは純粋な善意や愛から発信されていると感じるし、自立を促す印象を受ける。


もちろん勉強になることも多々あるし、新しい情報は自身を刺激し、発見にも繋がるから、私もその情報を取り入れたりする。

 

ただ、自分の反応を確かめながら、注意深く・・だ☆
依存に繋がる可能性があるからね。
それなしに生きていけないような感覚になって、自分を見失ってしまうのは頂けない。

  

だから私の情報収集の基本姿勢は、腑に落ちるまでは保留、そして広く浅く。


自分の感性を主軸にすることで、様々な情報を照らし合わせて、自分で考えるチカラを養う訓練にもなって一石二鳥!^^


その情報が白か黒かなんて、その人の価値観によって簡単に変わるじゃんね、だからグレーで保留する心のゆとりが大事かなーと、今のところはそう思ってる。

 

でも面白いもので…

おおもとの情報って、より多くの人に受け取って貰えるように工夫しているように感じる。色んな個性を持ったチャネラーを通して、様々なバリエーションで伝えることで、より多くの人に届くようにしている、みたいな。

 

だから、どれを選んでもいいんだろうな、きっと(^^)v☆

 

たとえば、富士山を登頂するには4つの登山口があるけれど、どの登山口から登っても必ず頂上に辿りつけるように、どの存在&チャネラーでもいいと思うんだよね。

 

それぞれの登山口に、景色などの趣きや、あるいは初めて登山する人~上級者までの難易度があるように、自分の受け取りやすい存在やチャネラーさんを選べばいいと思う。

 

でも、その存在やチャネラーの情報だけが真実で、これ以外は真実ではない、と思って執着固執してしまう<依存してしまう>のは、非常にもったいないように私は感じる。

 

それって「この登山口以外は登山道ではない!」と言っているようなもので、色んな登山口から登ることで色んな角度からの景色が見えて、色んな植物が自生していて、しかもそれらの景色はきっとどれも素晴らしいであろうに、ひとつの登山口しか登らないなんてなぁ~と思ってしまう。私はね。

 

色々試してみて、この登山口こそが自分に合ってて楽しいからこの道を選ぶと感じるなら、それもいい。っていうか、むしろGOOD♪

 

「他の登山口にもそれぞれ良さはあるけれど、私はこれが好きなんだ♪」って自分の気持ちを軸にしたスタンスの方が、お互いに個性を認めあってるようでいいよね。


他の登山口も「気分転換したくなったらおいで♪」なんて思うであろうなと^^。

 

存在にも、チャネラーにも、そして自分自身にも個性という趣きがあるから☆

 

探求って楽しいし、新しい情報に触れるのって面白い!

 

だからこそ、

もっと自分の枠を大きく広げて、自由に♪

ぜーんぶOK!と、もっと軽やかに♪

 

でも、今こうして思えるのは、私自身が過去に『選民意識』『承認欲求』『特別意識』にどっぷり依存した過程があるからこそ。

良い経験したなぁ。

 

だから、そんな過去の自分も大切だし愛おしい(^^)

 

 

ppisca

 

プラネタリウム『いのちの星の詩』と、木星と、音楽と、シリウスと・・♪

先週、春からず~~っと行きたかったプラネタリウムへ行ってきました^^

平原綾香さんの『いのちの星の詩(うた)』というプログラムです。

そう、なんであの時「Jupiterの歌詞ってどんなだっけな?」なんて思ったかというと、このプラネタリウムのテーマが木星に関することだったからなのでした♪

 

平原さんは、初めてホルストの惑星組曲の「木星」を聞いた時にものすごい衝撃を受けたそうです。ちょっとうろ覚えではありますが、確かこんな事を仰ってました。

 

『音楽というのは知識の中だけから生まれるのではなく、直観のような、宇宙の何かが働いているように思えてならない』

 

私も授業で初めて聞いた時は、不思議と古さを感じさせない美しいメロディーに感動しましたが、あの歌詞をつけて歌い上げられた平原さんにも宇宙の何かが働いていたんだろうなぁ。素晴らしいと感じます。

素敵な歌にして私達のもとに届けてくれてありがとう^^

 

世の中には、それこそ星の数ほど音楽があると思いますが、この人の声によって歌われるべくして歌われた曲や、創られるべくして作曲された曲っていうのがあるような気がしています。何よりラッキーなのは『自分の心を揺さぶるほどの音楽に出会える時代や、国、ひいてはこの星に生まれてきた』っていう事なのかもしれません♪

 

ところで、プラネタリウムですので大迫力のスクリーンに宇宙旅行している気分になりますが、小学校や中学時代の理科の授業はあまり興味が無かった為か、スッコーン!と記憶喪失ばりに忘れてしまっている為、太陽系や銀河の話はまるで生まれて初めて聞くかのような感動がありました☆笑

 

今回の上映で、水があり生命が育まれる環境である地球って本当にものすごい奇跡が重なった上で成り立っているという事が分かり、ものすごいビックリしました。少しでも感動を伝えたいので説明を試みますが、いかんせん理科の成績は「2」だったので間違ってたらゴメンナサイ(^^;

 

えっとですね、、

地球は、金星と火星の間に存在している訳ですが・・・
太陽光が届かなかったり逆に太陽に近すぎたりすることで、金星と火星には生命が育たなかったそうです。にも関わらず、地球は、その金星と火星の間という範囲内にあることで、水があり生命を育めたとのこと。地球があと少しでもどちらかの惑星に軌道が寄っていたら、いのち豊かな水がある星にはならなかった事を考えても、このベストポジションで存在してる事自体がものすごい確率であり、それこそ奇跡的と言えるのだそうです。

 

さらに、太陽から見て地球の一つ外側に存在している木星
木星は直径で地球約11個分もの大きさということで、とにかく巨大な惑星!いや~もう木星ってばBIGな星で、BIGりですね!・・え?あ、ウケなかったすか?w まぁいいや(笑)コホン!

・・・で、木星自体は物質ではなく気体の集まりなのだそうですが、強力な磁力がある為、木星の背後から太陽に向かっていく隕石をカラダを張って磁力でひきつけることで、地球を守ってくれているとのこと。スクリーン上でも言っておられましたが、木星がなかったら、たぶん地球は隕石の絶えない大変な世界になっていた事でしょう・・^^;

 

さらにさらに、想像していた以上に太陽も強力な太陽光を放っていると知りました。

太陽光には有害な紫外線も含まれていて、地球ももちろん太陽光を浴びている訳ですが、オゾン層の膜で覆われている為に有害なものは届かない為に無事なのだそうです。

ただ、このオゾン層

なんとなんと・・リンゴに例えると皮の薄さ程度しかないそう。非常に驚いたのですが「あぁ、地球のこと大切にしないとなぁ・・」なんて改めて思いました^^ 

ちなみに、この強力な太陽光エネルギー。どのくらい強力に光を放っているかっていうと、太陽系の惑星すべてをすっぽり覆うほど広範囲に渡って光を放っているそうです。そして同時に太陽光出来た繭のように、地球をはじめとする太陽系の惑星すべてを宇宙に存在する有害な光線?や隕石などから守る役割も担ってくれているそうです。

 

太陽エネルギーの光の繭にしても、カラダを張って守ってくれている木星にしても、私たちの日々の生活を守ってくれているオゾン層にしても、どれ一つが欠けても私たち人間は存在していなかった・・と考えると、すごくないですか!?

私達が地球に暮らしているのって、当たり前のように感じますが、宇宙規模で考えても本当に奇跡。すごいこと。生きてること、生まれてきたこと、本当に感慨深く思いました。

 

話は少し変わりますが、焼津には世界的に有名な望遠鏡製作者の法月惣次郎さんという方が住んでおられたそうでして。

83歳にて永眠されましたが、そのわずか2年前に完成させた、350・・? いや、360・・何号機だったかな?ちょっと忘れましたが、その望遠鏡が口径80cmという希少な望遠鏡なんだそうです。

www.discoverypark.jp

この望遠鏡が館内の最上階に展示されているのですが、なんと昼間も星を見られるとのことでして「昼間に星が見られる・・だと⁉ぜひ見てみたい‼」という事で見学してみたら、あいにくの曇り空。残念だけど見られないかな~と思っていたのですが、専門のスタッフさんとお天道様が息を合わせるかのように、めっちゃ頑張ってくれました結果!見れたのです~~!!

 

私、生まれて初めて…

シリウスという一等星を見てしまいました!

それも昼間に!!

 

望遠鏡をのぞきこむと、夜に観測するような黒い背景ではなく、白。晴れていれば本当は青空色の背景なのだそうですが、曇り空ということで真っ白でした。

のぞきこむ角度を調整しながらよーく見てみると、ダイヤモンドに光が当たった時のように眩しい光をギラギラと放つ星が・・・!!ほぅ…これがシリウス…!!。

電灯とかLEDとか照明とか、身の回りにはたくさんの光るものはありますが、

あんな輝き方をした光・・・もはや眩しすぎて白いのか銀色なのかも分からなくなるような強い光の粒を1箇所に凝縮して、その1つ1つの光の粒がまるで自ら意志を持って“我先に光らん”としているかのような、そんな星の強い光は、私はこれまでに観たことがありませんでした。この感動は言葉では言い表せません。

余談ですが、シリウスはイルカとのご縁がある星と聞いていますのでなんだかちょっと嬉しくなりました^^

 

シーズンによっては、土星の輪っかもくっきりと見えるそうで、今年中はちょうど「土星と言えばあの形」という形で見られるそうです。年によっては輪っかの位置が移動してしまうので、次にこのきれいな形で見れるのは10数年後とか言ってたっけかな?ま、なんにしろ望遠鏡で惑星見る機会なんて日常には無いですからね、一度この眼で見てみたいなぁ~なんて思いました♪

 

宇宙って、惑星って、生きてるって、音楽って、すごい!

 

 

pisca

 

太陽星座について何となく理解☆

ホロスコープの研究をしていて意外と実感が湧かないのが、太陽星座☼

 

友曰く、「自分ではよく分からなかったりするもの」らしい😄

 

占星術家さんの話でも "太陽星座は無意識に外の世界に対して見せているもの" らしく、

「それじゃ〜分からなくても仕方ないもんだわ〜(*´∀`)」

なんて思っていました。

 

またまた友曰く「自分のはよく分からなくても、人の太陽星座はよく分かる」とのことだったので

「あ〜そうかもねぇ〜」なんて言いつつも、分かるような、分からないような…??( ・∀・)ハテ?

みたいな感じだったのですが、

 

先日、友達数人と会って話を聞いている時に……

 

 

・・・。ジーー (*・д・)―→

 

 

・・・。!?( ゚д゚)ハッ‼

 

 

・・おっ!これかぁ〜!! ポンッ. (´⊙ω⊙`)!

 

 

と、ふいに分かった瞬間があってスッキリ✨笑

 

 

帰宅後、「めっちゃ楽しかったな〜♪」なんて思い出し笑いしてる時に、またまた、ふと気付く。

 

 

ん…?

よくよく考えてみると…

 

あの場面とか、あの会話のテンポ感とか、あの話題にした私のコメントって、もしかして私の太陽星座っぽい感じが出てたりするのかなぁ。

いや、そもそも雰囲気の話なのかな…?(゜o゜;

なんて思ったり。

 

 

そうそう、雰囲気といえば、

私は何故か小学生の頃から「piscaちゃんって落ち着いてるね〜😃」なんて友達のお母さんから言われることも多かったなーなんて思い出す。決して物静かなタイプでは無かったと思うんだけどね。

当時もやっぱり「落ち着いてる…はて?」って感じだったんだけど(笑)

 

まぁ、自分が相手に与えている印象なんて、

自分ではよく分からないのが普通というか当たり前なので…^^;

 

 

自分で無意識に相手に与えている印象をなんとなく知る手掛かりとして、

『太陽星座』ってものがある

という感じが、なんともおもしろい♪(*^^)v

 

 

自身のホロスコープ研究は、

これからも続いてゆく〜💃

 

 

pisca

報道に、脚色はいらない。

人が亡くなってしまったり、殺められたりするような、凄惨な事件や事故が起きてしまったとき。

 

テレビを見る度に思う。

 

 事実に基づいた報道に、

脚色はいらない

 

テレビの報道の在り方だけでなく、

ネットで次々と個人情報を晒され吊るされる様子を見ていてもそうだ。

 

被害者や遺族の方々の心情を思うと非常に心が痛み、

胸が締め付けられるよう。

 

加害者のことを思っても非常に心が痛む。

 

 

報道やテレビは、大義名分をかざす。

 

報道の自由だ」

「知りたい人に情報を提供するのが役目」

「過ちを繰り返さない為にも、情報を詳細に伝える必要がある」

 

でも、実際やっていることといえば、

 

この先どうやって生きていこうかと

途方もない喪失感にさいなまれている遺族への、

「どんなお気持ちですか」

というインタビュー。

 

そんなこと聞くな、と言いたくなる。

 

そっとしておいて欲しい、

と局に紙面で送っているにも関わらず、

遺族のその後の動向を探ろうとする記者やカメラマン。

 

そもそも、

そっとしておいて欲しいなんて当たり前のことを、

自我を保つのも精一杯であろう遺族にわざわざ公表させてしまうような、

そんな報道の在り方は、あまりにも悲しい。

 

その後どんな人生を歩んだかも知らないような “自称・友人” による、幼いころの加害者像。

 

学生時代の文集を持ち出し、

「こんな人物ならこんな事件を起こしても仕方ないよね」

あるいは

「あんなに優しい人柄だったのに、なぜ?」

と、取り上げるワイドショー。

 

なぜか?

視聴率・・つまりお金を稼ぐ為だ。

 

誰かが辛い思いをしている時に手を差し伸べるのではなく、

その誰かの辛さや悲しみを無責任に脚色演出し、

あまつさえ食い物にして稼いでいることに、

無私の怒りを感じてならない。

 

私は、その在りように涙が出るほど胸が苦しくなる。

人には本来「命を愛しむ」という本能が備わっているはずなのに、どうしてなんだろう、と。

 

遺族にとっては

受け容れるまでに時間がかかる出来事であり、

事実を知った瞬間のショックな気持ちを思い出したくない、けれども受け入れざるを得ない、

そんな状況のはず。

 

それなのにテレビでは、

テレビをつけているだけで、まるでテロのように脚色された報道が流され、

その度に自分の大切な人を失った事実を何度も何度も突き付けられ、

自分達のことを大してよく知りもしない誰かが、

薄っぺらい “同情” を言っている。

 

インターネットを開いても、

自分達のことをよく知りもしない誰かが好き勝手 書いている。

しかもネットでは、文章や動画がずっと残り続ける。一生。

 

もう放っておいてよ。

お願いだから、そっとしておいてよ。

 

きっとそう思うであろう。

 

 

加害者の家族も、

どんなに辛い思いであろうかと思う。

 

家族が取り返しのつかないことをしてしまったと、家族の罪を一生背負い続け、悔やんで生きる人生となる。

 

『事実を受け容れなければならない苦しみを背負う』

という点では、重さの違いはあれど、

被害者遺族と同じだ。

 

テレビやネットで、

加害者となってしまった自分の家族が吊るしあげられ、裁かれ続ける。

そしてやっぱり、加害者の事をよく知りもしない誰かが好き勝手言っている。

 

被害者や遺族が、加害者やその家族に怒りを感じるのは、当然だ。

当事者同士には、どんなやりとりがあったっていい。

 

しかしながら、

双方の人生の背景もろくに知らず、報道の一面だけを鵜呑みにしたあげく感情に呑まれ、徹底的に叩いたり、更にあおるような事を発信する、第三者

 

なんの関係もない第三者がさんざん好き勝手に裁きを下したあげく、ほとぼりが冷めればすぐに忘れる。

 

遺族や加害者など関係者にとっては、その後の人生でずっと抱え続けることであるにも関わらず、だ。

 

報道でもネットでも、

面と向かって本人に言えないことを無責任に言いたいだけ言って、去る。

しょせん、第三者は第三者なのだ。

 

 

 だったら、

干渉するな

と言いたい。

 

 

そしてそれが、

優しさでもある

とも。

 

 

三者である私たちが出来ること。

 

ただ起きた事実だけを受け容れ、

無責任な脚色やあおりに踊らされないこと。

 

双方の心情を慮り、見守ること。

少しでも悲しみが癒えるようにと願うこと。

助けを求められれば、手を差し伸べること。

 

 

 加害者についても、そっとしておくべきだ。

 

「なんでそんな事をしてしまったんだ・・」

とは思う。しかし同時に、

「たとえ人を殺めても報われないであろう。きっと苦しさでいっぱいのままであろう」

とも思う。

 

加害者は死んで終わりではなく、魂というか存在としては、そのことに向き合い続けることになる。

 

自ら命を絶ったり、人を殺めてしまうことほど、その存在に深く傷が残ることは間違いないであろう。

 

 

自分の感情はひとまず脇に置いて、

そんな大きな傷を抱えてしまった加害者を非難するでも擁護するでもなく、

ただ一つのそういう “存在” として認め、

慈悲の心で受けとめる。

それが出来なければ私見を入れずに「ただ、見る」ことこそが、

三者に出来ることであろう、と思う。

 

 

報道に脚色はいらない。

人の不幸の上に、どうか立たないで。

 

当事者では無いならば

干渉しないで、優しさと慈悲を。

 

 

今日書いたことが、

私自身がこれまでずっと心苦しく思ってきた、

報道やネットの在り方に対して思うこと。

 

 

pisca